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ヨコハマ 真夏のSO-ZO歩記 by 田中えり子(編集ライター)

ヨコハマ 真夏のSO-ZO歩記  
by 田中えり子(編集ライター)


――その1
 8月4日、久しぶりに降り立ったJR桜木町駅。
 私は3歳から11歳までを横浜で暮らし、さらに18歳までは東京・渋谷から山手の丘まで遠距離通学していたので、いちおうの横浜育ち、である。
 しかしヨコハマの、ここ20年あまりの大規模な変貌がすさまじかったこともあり、じつは近年、ふるさとから足が遠のいていた。子どもの頃の思い出の風景が消えていく、というのは誰にとってもあまりうれしいことではないと…。

 私が子どもの頃、桜木町周辺の海側を占拠していたのは広大な造船所だった(三菱重工業でした)。古びた工場の屋根、むき出しの大型起重機、ドックに横付けされる船…。それが25年前、造船所の本牧への移転とともに、みなとみらい21事業がスタートし、あれよあれよというまに美しいベイブリッジができ、観覧車ができ、インターコンチネンタルができ、パシフィコができ、さらに日産がやってきた。

 そもそもペリー来航から6年目の1859年、今から150年前に横浜を開港したのは桜田門で暗殺された井伊大老だが、(銅像のあるのは桜木町駅手前の掃部山公園)すでにそこから横浜の変貌の運命は始まっていたわけで、日本初の鉄道もアイスクリームも馬車道の街灯も牛鍋も、中華街も外人墓地もマリンタワー(灯台)も、横浜名物は明治以降の文明開化の歴史が生んだ産物だ。思いおこせば、山手の「港の見える丘公園」のある地域も、戦後、40数年前までは米軍ハウスに埋め尽くされていた。立川の昭和記念公園と同様、米軍占領のおかげでバラバラの開発が進まずにあるまとまりとして残った地域ともいえる。

 「クリエイティブシティ・ヨコハマ」の構想も、海に面した国際都市の発展として当然の帰結であると今では思えるが、そのために行政内部の機構改革の断行や、都市ビジョンとして各政策はどのように作られてきたのか、その詳細は別に検討する機会をもちたい。
 今回の視察は、そのビジョンを具体的にどう形にしているのか、もしくはアートと社会の関係をどのように見せてくれているか、私たちにとって参考となる事例を現場で体感することに意味があった。


―― その2
 さて、視察先第一号は野毛山にある「急な坂スタジオ」。昔は結婚式場だった旧老松会館を、あまり手を加えずにそのままアーティストの稽古場として使っているのが面白かった。なにしろ、廊下の瀟洒な照明もじゅうたん敷きの床も、部屋の壁に設置してある黄金色の神棚もなごりのまま。撤去する費用ももったいない、ということか。使用料はかなり安く、(とあるスタジオをひと月占拠しても8万円など)舞台づくりも含めて演劇の仕込みをする人々には、とても助かる施設だろう。このネーミングもなかなかセンスがいい。管理はNPO法人アートプラットフォーム。公設民営である。

 みなとみらい線の開通によって廃止された旧東急東横線の桜木町駅舎を改造したイベントスペース「創造空間9001」。これも不要施設を撤去せずに活かす、という試み。オープンギャラリーとして人々が行き交う駅頭という立地条件のよさ、170㎡の使用料が 1週間8万円というのも比較的リーズナブルだ。管理運営は(財)横浜文化芸術振興財団。

 馬車道へと道をたどれば、旧銀行の建物を活かした展示スペース「BankART1929」、さらに日本郵船のコンクリート剥き出しの倉庫を改造した「BankART NYK」、天井まで届く金庫の重厚な扉に思わず目を奪われる「東京藝術大学大学院映像学科」。おしゃれな赤レンガ倉庫はショッピングモールとセレクトアートショップに。旧関東財務局の建物は、ZAIMという名称のアートスペースになり、この日はメディアアートのアーティストたちが集って作品を展示していた。どれも歴史的建造物を保存しつつ新しい目的に使用することで、内外から注目をあびている「創造界隈」の果実だ。

 秋にまた開催される横浜トリエンナーレを核にしながら、国内外のアーティストが交流し、アイデアを形で表現し提案し、ネットワークを構築する「創造界隈」というプロジェクト。ビジネス街・官庁の中心に美術館や博物館が点在し、街灯や看板までがアートになる。さらにワークショップや学校、ショップやカフェに屋台パブなど、アートにまつわる楽しさが生み出されるならば、そこに人々が集まってくる。
 今回は訪問できなかったが、横浜をデザインで牽引するクリエイター集団・NDCが入居する「万国橋SOKO」も、アーティストインレジデンスという施策のひとつ。アーティストを歓迎することが、やがては経済の活性化につながる時代だと、まさに実感できる場所だった。
アートは確実に街を活気づかせる。

―― その3
 しかしいうまでもなく、これらの一連の創造事業には、大規模な予算措置が必要である。開港150年というひとつの目的を共有することで、行政主導で産学官民が協働し、さまざまなうねりをおこしてきたのだろうが、事業が大掛かりなだけに、一般の市民との距離が遠く、市民の顔がみえないという側面は気がかりではあった。税金の使い道として、市民をどう説得しているのか、そのあたりはいずれ知りたい項目である。

 実際「BankART NYK」の管理運営を担うNPO法人のスタッフによれば、横浜市からの助成は全管理費用の半分ほど。基本的には年々10パーセントずつ減らされていく予定で、いずれは経済的に自立するように促されているという。このNPOでは市民ボランティアはまったく募集せず、基本的にはプロのアーティスト、マネジメントによる運営を試みている。つまり、担い手がちゃんと食べていくことができる事業を目指しているからだという。
 その意味でも、これからはZAIMの1階にある「アーツコミッションヨコハマ」(ACY)のような存在がもっと重要になってくるのではないかと思った。ACYは創造の担い手をサポートする役割として、アーティストやクリエイターのポートフォリオを備え、工房やイベントのための空き家や空きスペースの情報提供、市民やNPOとの連携など、アートの情報が交差する拠点である。平日であったからか、あまり活気が見られなかったが、こうした仲介役がアクティブになることこそが、たとえば予算の厳しい自治体にとっては、大事な要素になるのではないだろうか。


―― その4
 夕暮れどき、木と芝でつくられた大桟橋の公園の先端からベイエリア全体を振り返って眺めると、再開発で徹底的に高層化したホテルやビジネスビル、マンションの一群と、赤レンガや倉庫、開港記念館など歴史的な建物が混在する独特の風景が見渡せた。
 豊かで多様な財産をもつヨコハマというまちの魅力を活かしたクリエイティブシティ構想は、着実に実を結んでいることを実感する。ふるさとの変貌は、生き延びる都市のモデルとして相当価値のあるものかもしれないと。
 あとはここに集まるひとりひとりの観客が、単なるアートの消費者としてではなく、自身のなかに創造的な変化を感じていかれるのか、そうした双方向の動きがみえるともっとうれしいと思う。

 それにしてもこの日、私にとってもっとも気持ちがよかったのは、どこまでも広がる空の下で風に吹かれる場所、昔からの大桟橋であった。
 つまりは、人の生み出す文化というものは、まちを取り囲む自然環境の懐の広さ、深さによってこそ守られ、また癒されるというわけだろう。私達がとりくむ国立の創造活動においても、地域の水と緑、自然環境との共生は必須である。


 余談だが、後日別の場所で、ヨコハマの創造都市政策に当初から深く関わってこられた(財)アサヒビール芸術文化財団事務局長の加藤種男さんやニッセイ基礎研究所の吉本光宏さんにお話をうかがう機会があったのだが、ここまでのすべてが上からのトップダウンでうまくいったのではなく、行政の現場を説得するにはとてつもない努力と対話のプロセスが必要だったということだった。ツワモノのお二人が「もうなんどもやめようかと思ったくらい」大変だったというのである。
 どこにもはじめから楽な道はない。何かを変えたいと思ったら、考えや価値観の違ういろんな人たちと議論し、提案し、あきらめずに対話をつづけるしかないのだ、と。
 それでも、少しずつ、確実に変化は起きている。それを今、私達の希望としたい。
 (2008年8月12日) 
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by kapweb | 2008-08-17 15:06 | アートによるまちづくり研究会
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